2015年4月3日

金物屋から大手ファブへ ■カガヤ 加賀谷輝雄会長・加賀谷浩一社長 S造に特化最新鋭の工場 技術

金物屋から大手ファブへ ■カガヤ 加賀谷輝雄会長・加賀谷浩一社長 S造に特化最新鋭の工場 技術
加賀谷輝雄会長(左)・加賀谷浩一社長(右)

東北地区の鉄骨加工最大手であるカガヤ(岩手県盛岡市)。現在は月間平均約5000トンを加工する全国区のファブとなったが、1967年に釜石で産声を上げた創業期は、金物工事を請け負う小さな町工場だった。70年に盛岡へ移転、78年に鉄骨加工業へ進出し、96年に加賀谷鉄工所からカガヤに社名変更する。3代目社長として、一代で今のカガヤを築いた加賀谷輝雄会長だが、「鉄骨加工を始めて最初に受注した仕事で、元請け会社の倒産により手形が不渡りとなった。取引先に頭を下げ、親せきからお金を借りながら、何とか危機を乗り越えたが、経営の厳しさをまざまざと見せつけられた」と当時を振り返る。先人から学ぶべきものは多い。その軌跡をたどるとともに、現社長の加賀谷浩一氏に今後の展望などを聞いた。



――74年に弱冠24歳で社長を継いだ。素人同然だったと聞くが。

加賀谷会長「当時は手すりや階段などの金物工事が主体で、鉄骨加工はやっていなかった。同業の方々から仕事を回していただいたが、日々迷惑のかけっぱなし。営業、作業、見積もり、請求、資金繰り、社員など、どうしたら良いのか悩む日々が続いたが、前を向いて進むしかないと思った。良い会社をつくるんだと心に決め、朝早くから夜遅くまで駆け回った」

――78年に鉄骨加工業へ進出する。ここでも苦労したと聞く。

「当時は鉄骨造の建築物が増えてきて、私も“いつかきっとこんな鉄骨を製作してみせる"と心に誓ったことを思い出す。ただ、騒音で工場周辺に迷惑をかけてしまうこともあり、立地企業を募集していた盛岡工業団地に応募した。小さな会社で財務内容も悪かったため、何度もお断りされたが、78年に何とか受け入れてもらった」

「また、最初に受注した仕事で元請けが倒産し、手形が不渡りとなった。お金も何もないところからの挑戦で大変だったが、怖いとは思わなかった。絶対に財務内容の素晴らしい会社をつくる、クレームのつかない素晴らしい製品をつくる、素晴らしい人材を集めると心に決めていたため、再度鉄骨加工に挑戦した」

――その後は、高度経済成長の波に乗り、業績も上向いた。

「おかげさまで、81年ごろから順調に売り上げが伸び、財務内容も少しずつ良くなった。全国鉄構工業協会が認定するMグレードも取得した。ただ、加工量は月間数百トン程度で、仕事も岩手県内が中心だった」

――00年にはHグレードを取得する。

「有限会社加賀谷鉄工所として挑戦し、落ちた経緯があった。名前が悪いのかなとも思い、96年に資本金を2000万円に増資、社名を株式会社カガヤに変更した。また、98年に現在の本社・武道工場を建設し、生産能力を増強した。ただ、仕事量よりも武道工場の設備能力が勝っていたため、関東エリアに営業を拡大。Hグレードに再挑戦して00年に取得した。加工量も月間1000トン以上に増えていたが、関東物件はまだまだ少なかった」

――順風満帆のように見えるが。

「とんでもない。当時の社員からは、カガヤはMグレードで日本一だが、Hグレードでは最低だと言われた。でも、その通りだった。組織や仕事の分担などがきちんとできていなかった。そこで、まずはSグレードの仕事を勉強しようと思い、数社の下請けをやった。打ち合わせや検査の仕方など全然違い、2年ほど経験した。その後、ゼネコンから直接仕事をもらうスタイルにシフトした」

「組織や仕事の分担についても、ISO9001に挑戦して体を合わせた。02年に認証を取得して07年まで継続し、十分勉強できたと思ったので登録を解消した。同時に、より鉄骨加工に合ったカガヤマネジメントシステム(KMS)を構築し、運用を開始した。優秀な人材もそろい、また、旺盛な鉄骨需要にも支えられ、09年3月期は加工量で月間1万トン近く、売り上げで過去最高の212億円を計上した」

――Sファブとの競合は。また、東北から関東へ供給する距離的なハンディをどう乗り越えた。

「当時の大手ファブさんは、その多くがSRC(鉄骨鉄筋コンクリート)造を手がけていた。まだS(鉄骨)造が一般的ではなかった時代で、当社はS造に特化することで差別化を図った。より大きな物件を、最新鋭の設備で迅速に加工し、安い土地を利用していつでも即納できる体制を整えた。関東までの輸送費は高かったが、そうやっていろいろ工夫することでカバーした」

――鉄骨加工だけにとどまらず、川上、川下に事業領域を拡大した。その狙いは。

「08年のリーマン・ショックでは、当社も大きな打撃を受けた。売り上げ、加工量ともに半分以下に落ち込み、コスト意識の大切さをあらためて思い知らされた。そこで、コスト部隊を設置し、工程ごとに徹底的にコストを見直して、川下である切板の内製化を決めた。10年にシャーリング工場を建設。切板を内製化することで時間のロスを減らし、コストダウンも図れ、ジャストインタイムで鉄骨を製作できるようになった」

「また、加工能力だけ優れていても、加工した製品を保管できなければ意味がない。土地が安いというメリットを生かして、6万平方メートルの製品ヤードを完備したほか、本社・武道工場、団地工場、昨年立ち上げた新工場にそれぞれ1万平方メートルのヤードを確保した」

――11年に川上である建築事業部を新設。12年にはホテル事業にも参入した。目的は。

「シャーリング工場を建設した時と同じだが、本業を助ける副業が必要だと感じたため。11年に設置した建築事業部は、すぐに東日本大震災が起こって大変だったが、鉄骨製作から建築工事まで一貫して手がけることができる。復興関連のお手伝いもさせていただいている。また、12年に始めたホテル事業についても、復興工事などに従事する作業員の方々が、沿岸部に宿泊施設がなく、片道数時間をかけて現場に通われていると聞いたため。被災県でもある岩手の企業として、少しでも復興のお役に立ちたい」



浩一社長に聞く■

――一昨年に4代目社長に就任した浩一氏。加賀谷会長からバトンを引き継いで、プレッシャーを感じたことは。

「常に感じているが一番大きかったのは、部長や課長などきちんと言い合える年代の仲間がそろっていたこと。従業員の平均年齢も37歳で私と同じ。自分は一人じゃないと感じることができた」

――これから目指すべき方向性とは。

「昨年より次世代の経営幹部を集めジュニアボードを展開、その中で将来設計図をまとめ今後も一番にお声掛けいただける企業を目指している。時代のニーズはその時々で変わる。われわれの世代が敏感にアンテナを張っていかなければならないと感じる。また、職人不足により溶接ロボットを導入する企業が増えたことで、個性が薄れたとも感じている。そこで、当社では年に1物件でも難易度の高いものを受注し、工場一丸となって解決するようにしている」

――将来設計図とは具体的にどういうものか。

「花巻東高校野球部の佐々木洋監督が、強豪校に育て上げるために実践していると聞き、参考にさせていただいた。当社が目指している企業目標を中心軸に置き、それを実現するためには何が必要かを書き出したもの。それぞれの部門、社員一人一人にまで落とし込んだもので、目標に向かって逆算することで、今やるべき課題や方法などを考えさせている」(深田 政之)



かがや・てるお=1966年に岩手県下閉伊郡山田町の山田中学校を卒業後、19歳で家業の加賀谷鉄工所(現カガヤ)を手伝う。72年に創業者で父の重明氏が急逝、急きょ母の紀氏が引き継いだ後、74年に社長に就任。当時手すりや階段などの金物工事主体だった町工場を、一代で全国トップクラスのHグレードファブへと育てた。信条は「やってみれば、結果が教えてくれる」。趣味はゴルフや海釣りなどで、一生懸命働いて、一生懸命遊ぶことを心がける。50年12月17日生まれ、岩手県出身。



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