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2024.12.4
2016年4月11日
【第1回】産業新聞80年史 創世期の激動と混乱 ―創業から第二次大戦前夜―
産業新聞は今年で創刊80周年を迎えた。80年といえば人間でいえば「老境」の域に入っているが、企業は脈々と生き続けている。この間の歴史は順風満帆とはいかず、山あり谷ありの波乱に富んだ80年であった。「読者とともに」をモットーに鉄鋼・非鉄業界の情報を報道し続けてきたが、今日、産業界を巡る環境の激変は、日本の産業構造そのものを大きく変えようとしている。情報通信産業も目まぐるしいスピードで変化しつつある中、産業新聞は次なる飛躍に向けて着々と対応策を取ろうとしている。以下は、100年企業へ向けて発展を続ける産業新聞のたどった激動の80年小史である。
1936年(昭和11年)2月26日。この日、未明から降りしきる雪で東京は白一色に覆われていた。午前5時、陸軍の青年将校が歩兵連隊1473人を率いて首相官邸、警視庁などを襲撃。これが近代日本史上最大の軍部クーデターとなった二・二六事件である。奇しくもその前日、産業新聞社創業社長の故亀尾芳雄は、「鉄鋼金物新聞」発刊趣意書を関係各方面に配布、その反響を大いに期待していた。まさかの一大事件が起こるなど知る由もなく、一夜を過ごした亀尾は、翌朝一番、鋼材問屋に飛び込みその反響を聞こうとしたその時、ラジオから二・二六事件を伝えるアナウンサーの声が飛び込んできた。全国を震撼させたこの事件は、「鉄鋼金物新聞」発刊への業界の関心を一気に吹き飛ばしてしまった。この時のことを亀尾は、「期待外れの出発に先行きの不安を抱いた」と後に述懐している。このように先行き不安なスタートではあったが、これを乗り越え記念すべき創刊第1号が発行された。以後、幾多の変遷を経ながら今年、創刊80周年を迎えたのである。
創刊当時の日本の鉄鋼業は1934年、政府の強制により官営製鉄所と民間5社が大合同、日本製鉄が誕生し、政府保護のもと大型鉄鋼企業による鉄鋼業界の近代化が図られようとしている時であった。とくに先進国に追いつくため、国を挙げて鉄鋼業発展に力を入れた結果、31年から38年まで粗鋼生産量は年率20%という急成長を続けた。ちなみに、31年の粗鋼生産は180万トン、これが38年には647万トンへと急増、実に3・5倍近い伸びを示すという発展期であった。
こうした時代背景の下、週2回刊の「鉄鋼金物新聞」は急速に読者の支持を得、翌37年には社名、紙名とも「鉄鋼新聞」に改め、わずか1年後にはタブロイド版日刊紙へと発展した。当時の専門紙としては驚異のスピードで業界トップの座を確保、亀尾の「不安」はまさに杞憂に終わったのだった。
創刊当初、「鉄鋼金物新聞」という題字にしたことについて、亀尾は後年、「当時、鉄鋼というと"はがね"を連想する言葉だったように思う。三井、三菱などの大商社も"金物部"と言っていた時代であり、"金物"という言葉をあえて打ち出した」と語っている。しかし鉄鋼と言う言葉に「力強い響きがあり、業界人の勧め」もあって翌年、「鉄鋼新聞」に改めたといった経緯がある。
紙名のいきさつはともかく、その後順調に発展を続けた「鉄鋼新聞」ではあるが、当時の世界を取り巻く政治情勢は、第二次世界大戦へ向けて急速に緊迫感を強めていた。国内も戦時色を一段と濃くし、歴史の荒波に「鉄鋼新聞」も翻弄されることとなる。39年にはドイツがポーランドに侵入、これに対し英仏が宣戦を布告し第二次世界大戦の口火が切られた。40年には日本も北部仏印に進駐、日独伊三国同盟を結び、翌41年12月、世に言うハワイ真珠湾奇襲を敢行、未曾有の大戦へと突入していった。こうした国内情勢の緊迫は、「鉄鋼新聞」にも暗い影を投げ掛け、一時廃刊へと追い込まれることになる。
大戦へ向けて軍部独裁色を強めていた日本政府は、37年の近衛文麿内閣の成立とともに言論・文化統制を一段と強め、新聞各社に対しても強引な統合政策がとられた。41年春のこと、軍部の圧力により大阪府の特高新聞検閲係から「鉄鋼新聞は日本工業新聞(現産経新聞)に統合すべし」との話が持ち込まれた。創刊から5年、まだ30歳台の血気盛んな亀尾は「新聞統制なにするものぞ」とこれに反対、首を縦に振らなかった。当時、広告を取れば脅迫、生産実績など数字を載せれば軍事機密法に違反すると圧力をかけられ、おまけに新聞用紙を供給しないとまで言われた。それでも首を縦に振らなかった亀尾は、「非協力」のカドで当時の総務局長、編集局長とともに三人が、大阪府庁本部の留置場に身柄を拘束されるという事態にまで発展した。軍部はこの間に、残った幹部に対し廃刊を強要、同意書に無理やり判を押させた。16日間の拘留を解かれ、3人が放免されたときには「一夜にして新聞はなくなっていた」のである。このため100人近くの従業員は、東の「中外商業新報」(現日本経済新聞)、西の「日本工業新聞」へと吸収合併の形で引き取られ、「鉄鋼新聞」は一時その姿を消すこととなった。
創刊からわずか5年で廃刊の憂き目に会ったわけだが、この5年間は産業新聞にとって、まさに創世期の激動と混乱の時代ということができる。そして終戦後、再び鉄鋼・非鉄業界に不死鳥のごとく蘇ることになるのである。(文中敬称略)
1936年(昭和11年)2月26日。この日、未明から降りしきる雪で東京は白一色に覆われていた。午前5時、陸軍の青年将校が歩兵連隊1473人を率いて首相官邸、警視庁などを襲撃。これが近代日本史上最大の軍部クーデターとなった二・二六事件である。奇しくもその前日、産業新聞社創業社長の故亀尾芳雄は、「鉄鋼金物新聞」発刊趣意書を関係各方面に配布、その反響を大いに期待していた。まさかの一大事件が起こるなど知る由もなく、一夜を過ごした亀尾は、翌朝一番、鋼材問屋に飛び込みその反響を聞こうとしたその時、ラジオから二・二六事件を伝えるアナウンサーの声が飛び込んできた。全国を震撼させたこの事件は、「鉄鋼金物新聞」発刊への業界の関心を一気に吹き飛ばしてしまった。この時のことを亀尾は、「期待外れの出発に先行きの不安を抱いた」と後に述懐している。このように先行き不安なスタートではあったが、これを乗り越え記念すべき創刊第1号が発行された。以後、幾多の変遷を経ながら今年、創刊80周年を迎えたのである。
創刊当時の日本の鉄鋼業は1934年、政府の強制により官営製鉄所と民間5社が大合同、日本製鉄が誕生し、政府保護のもと大型鉄鋼企業による鉄鋼業界の近代化が図られようとしている時であった。とくに先進国に追いつくため、国を挙げて鉄鋼業発展に力を入れた結果、31年から38年まで粗鋼生産量は年率20%という急成長を続けた。ちなみに、31年の粗鋼生産は180万トン、これが38年には647万トンへと急増、実に3・5倍近い伸びを示すという発展期であった。
こうした時代背景の下、週2回刊の「鉄鋼金物新聞」は急速に読者の支持を得、翌37年には社名、紙名とも「鉄鋼新聞」に改め、わずか1年後にはタブロイド版日刊紙へと発展した。当時の専門紙としては驚異のスピードで業界トップの座を確保、亀尾の「不安」はまさに杞憂に終わったのだった。
創刊当初、「鉄鋼金物新聞」という題字にしたことについて、亀尾は後年、「当時、鉄鋼というと"はがね"を連想する言葉だったように思う。三井、三菱などの大商社も"金物部"と言っていた時代であり、"金物"という言葉をあえて打ち出した」と語っている。しかし鉄鋼と言う言葉に「力強い響きがあり、業界人の勧め」もあって翌年、「鉄鋼新聞」に改めたといった経緯がある。
紙名のいきさつはともかく、その後順調に発展を続けた「鉄鋼新聞」ではあるが、当時の世界を取り巻く政治情勢は、第二次世界大戦へ向けて急速に緊迫感を強めていた。国内も戦時色を一段と濃くし、歴史の荒波に「鉄鋼新聞」も翻弄されることとなる。39年にはドイツがポーランドに侵入、これに対し英仏が宣戦を布告し第二次世界大戦の口火が切られた。40年には日本も北部仏印に進駐、日独伊三国同盟を結び、翌41年12月、世に言うハワイ真珠湾奇襲を敢行、未曾有の大戦へと突入していった。こうした国内情勢の緊迫は、「鉄鋼新聞」にも暗い影を投げ掛け、一時廃刊へと追い込まれることになる。
大戦へ向けて軍部独裁色を強めていた日本政府は、37年の近衛文麿内閣の成立とともに言論・文化統制を一段と強め、新聞各社に対しても強引な統合政策がとられた。41年春のこと、軍部の圧力により大阪府の特高新聞検閲係から「鉄鋼新聞は日本工業新聞(現産経新聞)に統合すべし」との話が持ち込まれた。創刊から5年、まだ30歳台の血気盛んな亀尾は「新聞統制なにするものぞ」とこれに反対、首を縦に振らなかった。当時、広告を取れば脅迫、生産実績など数字を載せれば軍事機密法に違反すると圧力をかけられ、おまけに新聞用紙を供給しないとまで言われた。それでも首を縦に振らなかった亀尾は、「非協力」のカドで当時の総務局長、編集局長とともに三人が、大阪府庁本部の留置場に身柄を拘束されるという事態にまで発展した。軍部はこの間に、残った幹部に対し廃刊を強要、同意書に無理やり判を押させた。16日間の拘留を解かれ、3人が放免されたときには「一夜にして新聞はなくなっていた」のである。このため100人近くの従業員は、東の「中外商業新報」(現日本経済新聞)、西の「日本工業新聞」へと吸収合併の形で引き取られ、「鉄鋼新聞」は一時その姿を消すこととなった。
創刊からわずか5年で廃刊の憂き目に会ったわけだが、この5年間は産業新聞にとって、まさに創世期の激動と混乱の時代ということができる。そして終戦後、再び鉄鋼・非鉄業界に不死鳥のごとく蘇ることになるのである。(文中敬称略)
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