2020年10月15日

「道をゆく わが歩みと未来への提言」 中部・特集 丹羽鉄社長 森俊彦氏 高付加価値路線まい進

――終戦直後のお生まれで74歳になられますが、鉄鋼業界に入る前には繊維業界も経験されてます。

「1946年1月5日に岐阜県の海津郡城山村、現在の海津市南濃町で生まれ、68年に早稲田大学法学部を卒業した後、蝶理(ちょうり)という繊維専門商社に入社した。無借金で内容のいい会社だったが、繊維商社の仕事はとても厳しいものがあった」

――その後、75年に丹羽鉄に入社されました。

「先代社長の嬢子と73年に結婚したことが契機となったが、頭が固くなる30歳になる前、20代のうちに職を変わろうと思った」

――鉄業界に入られた当時の状況はいかがでしたか。

「まさに大不況。73年、74年というのはオイルショックの影響により日本経済自体が大不況下にあり、戦後の高度経済成長が終焉を迎えた。その影響で鉄鋼業界も厳しい状況だった。聞いた話では、オイルショック発生直前までは、例えば50円で仕入れたパイプが100円で売れ、4トン車1台で20万円儲かるといったような好景気だったが、オイルショックを契機にその状況が一転した。今度は逆に50円で仕入れたパイプが45円でしか売れなくなり、売れば売るほど、赤字になる状態になった」

「当時は全国の問屋が積極策をとっていたが、当社でも設備投資や子会社の立ち上げを、夢を持って進めてきた。その取り組み自体は悪いことではなかったが、その結果73年ごろには借り入れが大きくなっていた。当時の金利は7―10%の時代で、粗利と金利が同じくらいのため、経費で赤字になる時代だった。75年以降、当社では“暗黒の10年"と言っているが、二度と経験したくない厳しい時代だった。しかしながら主力メーカーさん商社さんの、ご支援そして多くの取引先のご協力社員の努力で、立ち直ることができた」

――森社長が入社され、若手時代を経験された当時の鉄鋼問屋の経営は、どのような感じでしたか。

「入社してすぐは倉庫を経験したが、現場を覚えた後は営業に配属となり、先輩社員について顧客を回った。その後、鉄鋼問屋の親睦団体である名鉄会の会員などを対象に、既存顧客や新規開拓も含めた仲間売りの営業に従事し、中部地域の多くの鉄鋼問屋さんを回った」

「先にも触れた通り、当時は状況が悪い時期で、毎月20日まで売り上げが立たなく大変だった。なぜならば、月末の締めがあるため20日を過ぎると各社が値段を下げて売り込んでくるので、それまで買わずに待つ顧客ばかりだったからだ。そこで天秤にかけられ、厳しい価格競争を強いられた。しかし、それがわれわれの販売先である仕入れ担当者の対応としては当たり前だった。仲間売りを行う鋼材問屋で仕入れを担当するのは、多くが社長の息子か社長が最も信頼を置いている番頭さん。営業に対しては各社とも、社長が“俺の言ったとおりに売ってこい"といったところが多かったと聞く。親父が買って、親父が言う通りの値段で売ってこい、という営業の世界。量さえ売ればボーナスが増える、というのが当時の鉄屋さんの状況だった」

――厳しい状況にさらされる中、丹羽鉄として大きな決断をされました。

「82年の11月に、社内の営業会議で仲間売りを止める決断を、主力メーカーさんの了解を取り付けて行った。その前にも、ペーパー口銭の切板や丸棒などの扱いを止めていた。それで仲間売りを減らすとともに、ユーザーの新規開拓に邁進した。翌83年ごろからはコンピューターのバージョンアップにも取り掛かり、社内での切断加工に本腰を入れ始めたのも、84、85年ごろ。82―85年の3年間は作業服を着た状態のままだった。ただその間も、名鉄会や銀行の会、得意先の協力会などへの出席もあり、ずいぶん多忙な日々だった」

――その後、オリジナル色の強い機械の開発を進め、高付加価値化路線を走ってこられました。

「問屋で切断加工を行うと発想したのは先代社長。その発想のもと子会社もいくつかつくった。84年ごろからは、弱点だった角パイプの切断を設備導入で内製化するなど、本社工場の切断充実に着手。85―87年にかけ切断機を20台ぐらい導入した」

――その後、社長に就任されましたが、バブル景気の崩壊後になりますね。

「93年2月3日に社長に就任した。先代社長も、これからは良くなるだろうとの思いがあったと思う。しかし、当時も景気の悪い状況が続き工場の仕事が薄い状況だった。大手高炉メーカーでも、生産量が少なかったため構内の草取りをやったが、取る草がなくなるほどだったとも聞いた。それほど厳しい業界状況だった」

――そこで社内改革に着手されました。

「特に“N・K・U(丹羽鉄改善運動)"に力を注いだ。弊社では5Sでなく、まず“1S"の捨てることから始めた。基本は、自分で困っていることを自分で改善することで、半年に1回、改善提案を発表し表彰も行う。現場では生産性向上、危険作業の軽減などが図られ、事務所では仕入れの改善により消耗品費がずいぶん下がるなどの効果を引き出した。この活動は現在も継続している」



積極性・知性・個性が鍵

――入社時、社長就任時とも厳しい業界環境に直面されました。

「その通りだが、以前に勤めた繊維業界の方が大変だったと思う。繊維では二次製品を扱っていたので、春・夏・秋・冬物と1年中企画、試作、製作、処理を続けなければならず、休む時がない。売れ行きは気候によって大きく左右され、特に冬物で失敗すると処理金額が膨らむ。営業計画を立てる段階で天気など誰も分からないので、“都会の百姓"と言われる業界だ。その中で自分で企画し、仕入れから最終処理まで責任を持つ。さらに繊維では、例えば1億円分の製品が売れ残り、処理しようとすると半値八掛け五割引となり2000万円にしかならず8000万円の損がでる。問屋さんなどは口契約なので、売れないと契約したものを引き取ってくれず、マーケットクレームもつけられ、多大な処分損が発生してしまう」

――繊維業界での経験は“パイプの丹羽鉄"でも生かされていますか。

「繊維での経験はモノづくりの経験。しかし、鉄鋼の仲間売りは価格だけの世界で20年やっても足跡を残せない。その仲間売りの世界で当社を分析した時、競合他社は大きな箱を持ち無借金で扱い量も桁違いに多く、さらにメーカーはどこからでも買えるのに対し、当社は箱は小さく借り入れも多かったため、総合力で競争にならないと判断。そこで鋼管に対する機械加工を通じ、モノづくりの世界でユーザーとともに歩む方向に舵を切った」

――社長就任後、苦労も多かったのではないでしょうか。

「私的には、前向きの性格ということもありあまり苦労したとは感じていない。ただ残念だったのは、リーマン・ショックで初めて赤字を出したこと。これが悔しい。それでも翌年にはしっかりとそれを取り戻し黒字回復した」

――業界活動にも精力的に取り組んでこられました。

「名鉄会ではちょうど50周年の時に会長を2年間務め、50周年記念パーティーをキャッスルホテルで行った。愛知鉄鋼販売業連合会では副会長、鋼管部会長を長く務めさせていただいた。個人的には早く引くつもりだったが結果的には長期にわたってしまった。しかし、一生懸命やらせていただいたつもりだ」

――業界活動に対する思いは、どのようなものだったのですか。

「名鉄会は創設以来、親睦を中心としてやってきた。創設時に先見の明があったと思う。私自身、地域同業者の結び付きの強化が市場を守る、という意味で積極的に協力してきた。次の世代も育ってきたので、今後は後進に道を譲っていくつもりだ。今後市場の縮小を考えると、名鉄会もそうであるし各団体の会員間でもそうだが、市場を大切する鉄屋であるという連帯感が重要。その意味では、愛鉄連が無くなったことは非常に残念なことである。すべての商売に言えることであるが、商売である以上競争がつきものだ。しかし連帯は必要。例えば市況が上向きに転じる時の転嫁でも、どこか1社だけで値上げを言っても通らない。複数の問屋が言って初めて理解されるので、各社が共通の意識を持ち、取り組むことで結果が出やすくなるのは自明の理である」

――中部地区のマーケットには現在、他地区からの参入も増えています。

「当地区で今一番心配なのがその問題。例えば中部地区内のある県が地域外の業者に攻められれば、その地域の問屋の売り上げが減り、その問屋に対する店売り業者の販売量も減少する。しかし、自由競争であり止めることはできない。これは大変なこと。一方で日本のGDPが大きく減少しており、アメリカで先行しているように、第二次産業から第三次産業への移行なども国内で進んでいく。既にメーカーの統合、商社の再編が始まっているが、これはやはり内需の後退ということ。この動きは今後も進んでいくと思われる」

――そのような状況も踏まえ今後、会社、業界に対する提言をお願いします。

「社内的には今後も、付加価値の向上を追い求めていくが、まずは当社にも業界に対しても、積極的にやれと言いたい。内需が減ることは止められず、当地区の総需要も今後減っていくが、それに対し業者の数は適正かどうかという問題がある。その中でどうしていくかを考えた場合、生産性の向上を進めるべきだ。そのための、新しい挑戦として“積極性"と“知性"“個性"をキーワードとしてあげたい。“積極性"とは、新しいことに果敢にチャレンジするという意味。“知性"とは新しいことを考える力であり、“個性"とは知性を使ってお互いに個性的な会社、個性的な商品をつくろうということ。“りんごとみかんは喧嘩にならない"ように、例えば山形鋼どうしならバッティングしても、それを加工した商品となれば変わるということ」

「後進には常々、とにかくどんなことがあっても社員に給料を払うことを忘れるな、ということを話している。当然、お客様不在の議論も一切してはならない。“不況は怖くない、不和は怖い"。組織が潰れていくのは、ほとんどが内部分裂によるもの。敵が攻めてくればむしろ結束する。業界としても、量が減るということが分かっているのだから、その中で不和とならないよう、お互いがどのように共存共栄を図るのかを真剣に考えて行ってほしいと願う」

(安江 芳紀)



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