2020年9月25日

「道をゆく わが歩みと未来への提言」 アスカ工業会長 天野久氏 アルミ二次合金 今後も成長続く業界

 ――御年94歳になられますが、社会に出た当時の状況を振り返っていただけますか。

 「戦前はまだ子供であり社会のことまで分からないが、戦争中は今とは比較できないほどの混乱だったことを覚えている。戦後になってからようやく世の中に秩序が生まれてきた。個人的には東京物理学校を卒業してすぐに、愛知県三河地区で繊維業を営んでいた実家の仕事を手伝い始めた。多忙な時を過ごし、困難なことも多々あったと思うが、辛いことは記憶から薄れ非常に楽しい時を過ごしたという思い出だけが残っている。思えば大戦以降、日本は長きにわたって戦争がなかった。非常に幸せな時代を過ごせたと感謝している」

 ――繊維業からアルミニウム二次合金事業に転換したきっかけはどのようなことだったのでしょうか。

 「1955(昭和30)年当時、アルミニウム国内生産量は非常に少なかった。だが、将来性が高い金属との評判を聞き、惚れこんだことがきっかけとなった。運よくわれわれの予想を超える規模で業界は発展していった。正直これほどまでの規模になるとは考えてもいなかった。当時を振り返ると日本経済自体もそのような自信を欠いており、がむしゃらに仕事をして発展してきた。われわれはアルミニウムを手掛けることができて本当に幸せだったと感じている」

 ――当時はリサイクルという概念は一般的でなかったと思います。なぜ、繊維からアルミニウムのリサイクル産業に円滑に業態転換ができたのですか。

 「当時、三河地区では古い繊維から新しい糸を造る『ガラ紡』という産業があった。繊維業を営んでいたためリサイクル産業の重要性をすでに理解していたことが大きかった。アルミニウム二次合金業界に飛び込む大きなヒントになったと思う」

 ――仕事で困難なことはありましたか。

 「今、振り返ると立ち直れないほど苦しいと感じる時はなかった。他の産業では厳しい時代を経験したところが多いが、われわれの業界は非常に恵まれていた。数字で比較しているわけではないが他産業よりも需要が順調に増加してきたのではないだろうか。現在ではリサイクルの重要性はますます高まってきており、成長性のある産業だと今でも感じている」

 ――国内のアルミニウム二次合金の発展に至る歩みで印象的だった出来事はありますか。

 「当初は国内の自動車生産などほとんどなく、自動車向けのアルミニウムの供給もほぼゼロだった。当時は、日本の自動車がこれほど売れるようになるとは思いもしなかった。また、自動車産業も他の産業も小さな会社ばかりだった。だが、日本経済の発展とともに自動車生産が増加していくにつれ爆発的に自動車向けのアルミニウムの供給量が増えたと記憶している。また、アルミ需要という点ではアルミサッシの普及が急速に進んだことも印象に残っている。だが、改めて振り返れば需要の波は決して凸凹しておらず。社長在任中は緩やかに成長を続けてきたとの印象がある」

 ――現在、新型コロナウイルス禍で世界経済は大きな落ち込みを見せています。過去の不況時のアルミ合金業界はどのようなであったのでしょうか。

 「オイルショックなどを経験したが、他産業と比較すれば大きな影響はなかったと記憶している。アルミニウム精錬業の国内撤退などの動きはあったが、われわれが生産を止めるようなことは一度もなかった。アルミニウム二次合金需要としては長い目で見ると業界が壁際まで追い込まれるほどの事態はなかったと感じている。戦中の混乱期や繊維業界の激変を経験した身としては、アルミニウム二次合金業界はこれまでも、これからも成長が期待できる産業であると確信している」

 ――オイルショックを発端としたアルミニウム精錬業の国内撤退を振り返ってみると、当時はどのような思いでしたか。

 「日本人は戦争の記憶から国産にこだわる声が多かった。だが、安く造れるところで製造するのが世界の潮流であり、長い目で見るとそれで良かったと考えている。その結果として安定して安いアルミニウム地金を材料に用いることができ、自動車や建築向けでアルミニウムが大量に普及するきっかけとなった。その経緯があるからこそ日本のアルミニウム二次合金産業は世界で力を得ることができた」

 ――アルミニウム二次合金業界が今後も引き続き成長していくためにはどのようなことが重要と認識されますか。

 「まずは価格を抑える努力をすることが大切だ。そのため苦労を厭わず、悩みぬき考えを重ねていくことが重要だ。それを怠れば他産業のように仕事がなくなる時を迎えてしまうかもしれない。努力と考えることを決して怠ってはいけない」

 ――皆さまのおかげで弊紙も2万号を迎えることができました。

 「長い歴史を歩んで来られたと感じている。貴紙が創業した1936(昭和11)年の頃、私はまだ11歳の子供だった。長くにわたり業界に貢献されてきた貴紙に敬意を示したい。当時の日本を振り返ると現在の人々は戦争に向けて混乱期にあったと思うかもしれないが、幼かった私にとっては今よりよほど静かな時代と感じた。それは半面、騒げば逮捕されてしまうという一面があったためかもしれない。今は騒がしい時代だが何でも言いたい放題にできる自由がある。そのありがたさを忘れてはならない」

すべての資源を大切に

 ――業界他社に先駆けて早くから海外、特に米国との交流を活発にやられてきたとお聞きしています。昭和30年代ごろの米国のアルミニウム二次合金業界はいかがでしたか。

 「米国に友人が多くおり、よく呼ばれて出かけ行った。今振り返ると米国のアルミ業界は当時がピークであった。米国資源リサイクリング協会(NARI)の集まりでも実に多くの人々が集まり、業界の活気の良さを感じたことを覚えている。日本の代表として講演も務めさせていただいたことあったが、日系米国人で上院仮議長も務めたダニエル・イノウエ氏と共に講演したことも今でも記憶に残っている。米国の業界の力を強く感じた」

 ――米国での講演ではどのような内容をお話しされたのですか。

 「1977年9月にハワイ州のマウイ島で行われたNARI西部年次大会では『日本の経済とアルミニウム業界』といったタイトルで話しをした。当時の資料をみるとオイルショックの中でありながらも日本のアルミ二次合金業界は堅調に推移していたと講演で述べており、76年にはアルミ二次合金地金の生産量が過去最高に迫る50万トンに達したと説明している。また、当時の需要先は60%がダイカスト、残りの40%が砂型鋳物であった。原料については76年の輸入量でインゴットが8万トン、スクラップが7万トンであったとも語っている」

 ――その後の米国のアルミ二次合金業界の状況については。

 「米国のアルミ二次合金業界は縮小の道を辿り、NARIの参加者も年々少なくなっていった。私が社長を引退した頃には日米の業界同士の交流もほとんどなくなってしまった。米国の企業が合併統合を繰り返したため企業数が減少し、業界としての活動が成り立たなくなっていったのではないかと思う」

 ――過去においてわが国と米国のアルミ二次合金業界としてのレベルの差を感じられたことはありましたか。

 「技術的なことで米国のまねをしたということは記憶にない。日本は国内で独自に技術力を高めてきた。実際、当時から日本と米国の業界では根本的に考え方が違った。特に亜鉛に関しては相違が大きかった。米国ではアルミ二次合金において有用金属として用いられたが、日本ではアルミ合金にとって有害な金属として認識されており、相いれないところがあった。今でも米国の亜鉛規格は2%と高く、日本はADC12で1%以下に抑えられているなどの違いがある」

 ――米国と日本の亜鉛の考え方の違いはなぜ生じたと考えられますか。

 「詳細はわからない。昔から亜鉛に関しては考え方に相違があった。これはあくまで個人の考えだが米国は大手の亜鉛メーカーがあったことが影響したのではないか。日本は亜鉛メーカーの影響力が少なく、当初から亜鉛をアルミに加えない考えが主流であったと記憶している。ADC12は完全に日本人が製品として確立したもので、日本独自の考え方と技術で培ってきたものと言える。私のアルミ人生の中でも不思議であったことの一つと言える」

 ――協同組合中部精親会では長年にわたり理事長を務めてこられました。

 「非常に愉快な仲間達に囲まれ楽しかった。業界のために、との思いから一生懸命に活動した記憶がある。中国や台湾、アメリカなどから業界関係者に来てもらい話しをしてもらったりもした。国際的な関係構築にも苦心したことを記憶している。だが、倒産や清算に追い込まれる仲間も増え、私が理事長を引退した後、残念ながら会は解散してしまった。振り返っても非常に惜しい思いがある」

 ――業界への貢献が認められ黄綬褒章を受章されましたが、その当時の思いはいかがでしたか。

 「個人ではなく、精親会の活動が評価されたものと感じている。個人的には勲章への拘りはあまりなかった。正直なところ断ろうと思ったが、たまたま、勲章担当者が地元の人で後進のためにも受け取れと説得を受けたこともあり、受け取ったとの記憶がある」

 ――米国ミネアポリス市の名誉市民にも選ばれています。

 「昭和30年代、青年会議所在籍当時に世界大会が東京で開催され、翌年が米国での開催であった。宴会の場でアメリカの担当者と意気投合して行くことを決めた。飛行機が本土まで一度に飛べず、ハワイの手前で一度給油して行った記憶がある。日本人が米国に訪れるのが珍しい時代であったため、たまたま頂けたものだ」

 ――自社の社員の方々との思い出はどのようなことがありましたか。

 「現在まで続いているアスカセミナーだが、当初は社員教育の場だった。その他にも年に何回か勉強会を開催し、次世代の人々に想いを伝える場を設けてきた。また、社員と共に懇親のため海外などにも赴いてきた。その際、みんな興奮してなかなか寝つけなかったことなどが楽しい思い出として今でも目に浮かぶ」

 ――最後に業界の後進の方々へアドバイスをお願いします。

 「日本のアルミ産業のレベルは高く、その重要性も大きい。無くなれば多くの産業が立ち行かなくなってしまうだろう。だが、逆に他の産業が無くなればわれわれも存在できない。まさに持ちつ持たれつの関係であり、産業とはそういったものであることを忘れてはならない。また、アルミに限らずすべての資源を大切にする思いを持ち続けてほしい。そこがわれわれの仕事の原点であり、世の中に多少なりとも貢献できる箇所だからだ。誇りを持って仕事に取り組んでいただきたい」

(服部 友裕)

おすすめ記事(一部広告含む)