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2024.11.29
2021年8月18日
鉄鋼業界で働く/グローバル人材編/インタビュー/街で見る「成果」に笑み
鉄鋼業界で働くグローバル人材が増えている。東南アジア出身者を中心に外国人技能実習制度を利用して工場で活躍する姿が目立っているが、正社員として直接雇用契約を結び、長く働く人材もいる。西アフリカのブルキナ・ファソから来日し、廣内圧延工業(本社=大阪市城東区、佐藤泰正社長)で日々シャーリング加工を行うサヴァドゴ・ラスマネ(通称ラゾ)さんもその一人だ。来日の経緯や鉄鋼業界に飛び込んだきっかけ、仕事の魅力について聞いた。
――ブルキナ・ファソについて簡単に紹介してください。
「西アフリカの内陸部にあり、農業が盛んな国です。特に化粧品用のゴマやシアバターなどが有名ですね。金の採掘でも知られています。公用語はフランス語ですが、貧富の差が激しいため学校に通えない人も多く、完璧に話せない人も多いのが実情です」
――母国で日本について聞いたことは。
「小学5年生の時に世界の戦争を学ぶ授業で、広島の原爆について知ったのが初めてです。クラスの半分以上の生徒が、話を聞いて涙を流していました。またブルキナ・ファソはバイクが主な交通手段なので、ヤマハやホンダ、スズキなどの企業がどれも日本にあると知り、すごいと思ったのを覚えています。中学生のころには親戚のおじさんが駐日ブルキナファソ大使館(東京都渋谷区)の大使に就任し、帰省のたびに日本の街がきれいなこと、背景に日本人の勤勉さがあることなども教えてもらいました」
――来日の経緯を。
「2001年に母国で日本人の女性と知り合い、結婚を機に、彼女の提案で03年に来日しました。最初は東京で2―3年ほど住んでみるつもりでした」
――入社のきっかけは。
「来日直後から大阪府内の小学校にブルキナ・ファソについての講演を依頼され、約2年にわたり子供たちと交流していました。その後05年に京都に引っ越したのですが、良い仕事がなく悩んでおり、小学校の先生に相談したところ、ブログで僕を紹介し、仕事をくれる人を募集してくれたんです。5―6人から仕事の誘いを頂き、その中の1人が廣内圧延工業の廣内謙会長でした。以前から社会貢献活動で廣内会長と面識があったので安心感があり、就職を決めました」
――鉄鋼業界に入った当初の思い出は。
「05年12月に入社しました。みんなが私を見てびっくりしていたのが最初の思い出です(笑)。『クレーン見たことないやろ?』と興味深そうに接されたりもしました。周りは、何から教えたらいいのか困惑していたと思います」
――仕事はどのように学んだのですか。
「若手社員の中には、教えるのが面倒だったのか、自分でやる方が早いと思ったのか、仕事を聞いても教えてくれない人もいましたが、60代前後の先輩方は温かく迎え入れてくれましたね。ある先輩は、月に1―2回シャーリングの整備をする際、『一緒にやろう』と言って、共同作業をしながら整備の仕方を教えてくれました。別の年配の先輩は、分からないことがあると1回やり方を見せてくれて、次にやってみるように誘導してくれる方で、仕事で大事な部分などを自然に身につけることができました」
――現在の担当は。
「07年から12番シャーリングを担当しています。板厚4・5―13ミリに対応していて、今日切っていた鋼板は1枚16キロくらいでした。最初は力強く鋼板を押してしまうこともありましたが、今は製品に合わせて力加減を変えるように心掛けています。工場内で一番重い鋼板の手仕事を担当しているので、日々鍛えられて健康につながっていますよ」
――仕事の魅力を。
「今の仕事、全部好きです。目の前の車の部品になっているかもしれないし、家の建築に使われているかもしれない。自分の鋼板が誰かの安全につながっているのがうれしくて、わくわくします。また、自販機の台座のシェア率が高い会社に鋼板を卸しており、自販機を見かけると『僕の切った板だ!』と笑顔になります。京阪電気鉄道の複数の駅でも、自分の加工した鋼板を確認しました」
――大変なことは。
「毎日10―15トンの鋼板を切るのですが、まれにクレームが来ます。1枚でも不備があると、1日の仕事がムダになったように感じてがっかりします。でも、クレームは出したくて出すわけではないですし、絶対に同じことを繰り返さないぞと心に刻んで、以降の仕事に取り組むようにしています。廣内では希望すれば70歳まで働くことができるのですが、体力仕事なので何歳まで続けられるのか気になる時もあります(笑)」
――今後の目標は。
「目の前の目標は、良い製品を短時間で加工できるようになることです。会社の加工量にも貢献できますしね。将来的には12番シャーリング以外のさまざまな設備にも挑戦して、技術を身に着けたいです。いろんなスキルを持つ人材になりたいです」(芦田 彩)
鉄鋼業界で活躍する人材、未来を担う人材を、随時紹介していきます。
――ブルキナ・ファソについて簡単に紹介してください。
「西アフリカの内陸部にあり、農業が盛んな国です。特に化粧品用のゴマやシアバターなどが有名ですね。金の採掘でも知られています。公用語はフランス語ですが、貧富の差が激しいため学校に通えない人も多く、完璧に話せない人も多いのが実情です」
――母国で日本について聞いたことは。
「小学5年生の時に世界の戦争を学ぶ授業で、広島の原爆について知ったのが初めてです。クラスの半分以上の生徒が、話を聞いて涙を流していました。またブルキナ・ファソはバイクが主な交通手段なので、ヤマハやホンダ、スズキなどの企業がどれも日本にあると知り、すごいと思ったのを覚えています。中学生のころには親戚のおじさんが駐日ブルキナファソ大使館(東京都渋谷区)の大使に就任し、帰省のたびに日本の街がきれいなこと、背景に日本人の勤勉さがあることなども教えてもらいました」
――来日の経緯を。
「2001年に母国で日本人の女性と知り合い、結婚を機に、彼女の提案で03年に来日しました。最初は東京で2―3年ほど住んでみるつもりでした」
――入社のきっかけは。
「来日直後から大阪府内の小学校にブルキナ・ファソについての講演を依頼され、約2年にわたり子供たちと交流していました。その後05年に京都に引っ越したのですが、良い仕事がなく悩んでおり、小学校の先生に相談したところ、ブログで僕を紹介し、仕事をくれる人を募集してくれたんです。5―6人から仕事の誘いを頂き、その中の1人が廣内圧延工業の廣内謙会長でした。以前から社会貢献活動で廣内会長と面識があったので安心感があり、就職を決めました」
――鉄鋼業界に入った当初の思い出は。
「05年12月に入社しました。みんなが私を見てびっくりしていたのが最初の思い出です(笑)。『クレーン見たことないやろ?』と興味深そうに接されたりもしました。周りは、何から教えたらいいのか困惑していたと思います」
――仕事はどのように学んだのですか。
「若手社員の中には、教えるのが面倒だったのか、自分でやる方が早いと思ったのか、仕事を聞いても教えてくれない人もいましたが、60代前後の先輩方は温かく迎え入れてくれましたね。ある先輩は、月に1―2回シャーリングの整備をする際、『一緒にやろう』と言って、共同作業をしながら整備の仕方を教えてくれました。別の年配の先輩は、分からないことがあると1回やり方を見せてくれて、次にやってみるように誘導してくれる方で、仕事で大事な部分などを自然に身につけることができました」
――現在の担当は。
「07年から12番シャーリングを担当しています。板厚4・5―13ミリに対応していて、今日切っていた鋼板は1枚16キロくらいでした。最初は力強く鋼板を押してしまうこともありましたが、今は製品に合わせて力加減を変えるように心掛けています。工場内で一番重い鋼板の手仕事を担当しているので、日々鍛えられて健康につながっていますよ」
――仕事の魅力を。
「今の仕事、全部好きです。目の前の車の部品になっているかもしれないし、家の建築に使われているかもしれない。自分の鋼板が誰かの安全につながっているのがうれしくて、わくわくします。また、自販機の台座のシェア率が高い会社に鋼板を卸しており、自販機を見かけると『僕の切った板だ!』と笑顔になります。京阪電気鉄道の複数の駅でも、自分の加工した鋼板を確認しました」
――大変なことは。
「毎日10―15トンの鋼板を切るのですが、まれにクレームが来ます。1枚でも不備があると、1日の仕事がムダになったように感じてがっかりします。でも、クレームは出したくて出すわけではないですし、絶対に同じことを繰り返さないぞと心に刻んで、以降の仕事に取り組むようにしています。廣内では希望すれば70歳まで働くことができるのですが、体力仕事なので何歳まで続けられるのか気になる時もあります(笑)」
――今後の目標は。
「目の前の目標は、良い製品を短時間で加工できるようになることです。会社の加工量にも貢献できますしね。将来的には12番シャーリング以外のさまざまな設備にも挑戦して、技術を身に着けたいです。いろんなスキルを持つ人材になりたいです」(芦田 彩)
鉄鋼業界で活躍する人材、未来を担う人材を、随時紹介していきます。
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