2020年10月15日

グローバル展開に駆ける 大和工業成長の軌跡 井上浩行会長

大和工業は、海外展開で世界最先端を走り続ける電炉メーカー。日本、米国、タイ、韓国、バーレーン、サウジアラビア、ベトナムの7カ国8カ所で製鉄業を展開。連結人員3800人の85%、年産能力640万トンの90%を海外事業が占めるグローバル企業である。2020年3月期の連結業績は売上高1819億円、経常利益231億円、売上高経常利益率(ROS)12・7%。産業新聞社まとめの鉄鋼・加工メーカー業績ランキング(全100社)ROS部門では、直近5年間で3回トップに立つ。経常利益の約7割を海外企業が稼いでおり、大陸を超えた幅広い事業ポートフォリオが高収益を支えている。1981年に社長に就任し、87年の米ニューコア・ヤマト設立以来、「ジョイントベンチャー・ファースト」のスタンスで海外進出を牽引してきた井上浩行取締役会長にグローバル展開の足跡を辿ってもらった。(主筆=谷藤 真澄、早間大吾)

ヤマトスチール

【輸出市場の開拓から】

――日本鉄鋼業において海外進出がまだ珍しかった1980年代に米国合弁事業の決断に至った時代背景から聞きたい。

「初代社長で父親の井上浅次が1944年に現在の大和工業を創業した。戦後になって、レール加工事業から鋳鋼品、重機械加工事業へとビジネスを拡大し、75年にユニバーサル・ミルを導入して、電炉形鋼メーカーとしての礎を築いてくれた。私は69年に入社し、73年に取締役調査企画室長、74年に常務、78年に代表取締役専務に就いた。当時は鉄鋼事業が売上高の8割を占め、H型鋼が主要品種になっていた。その鉄鋼事業の販売先は店売りやストッキスト向けがほとんどで、『あと仕切り』の商習慣が残っていた。当時は、まず高炉メーカーの数が多かった。電炉メーカーも多く、東京製鉄は当社の3-4倍の規模で、主力のH形鋼でも東鉄の半分程度のスケールだった。こうした市場環境にあって、某高炉メーカーの建材部長からは、『立場が一番弱い大和工業に狙いを定め、あと仕切りを求めてくるだろうが、絶対に乗るな』と幾度となく言われていた。実態は、別の高炉メーカーが率先して『あと仕切り』を呑んでいたわけで、『大和工業は抵抗している』と反発し続けていた。とはいえ疑心暗鬼と混乱が解消される見通しはまったく立たず、収益を安定させるため、『あと仕切り』のない輸出市場への進出を考えた。日商岩井などの商社に相談したところ、東南アジアでH形鋼の販路を開拓しようということになった。私も一緒に出張し、シンガポールやマレーシア、インドネシアへと販路を広げていった。その後、米国向けの輸出も始めるが、ある案件で大きな問題が発生した。社長の父親は癌で闘病生活に入っていたため報告できず、義理の兄の萩原保延副社長、営業担当の三木博之取締役と私の3人で謝りに行ったが、商売は途切れてしまった。私が81年に社長に就任してしばらく経ったころ、ほとぼりも冷めただろうと、例の米国の取引先に挨拶に行ったところ、『同じ間違いをしないように』と釘を刺された上で、輸出を再開することができた」

――日本、東南アジア、米国でリスクを分散する市場戦略を具体化したが。

「その後、国内では『あと仕切り』がますます激しくなっていった。米国向けのH形鋼輸出に力を入れようと、年に2回、渡米してストッキストやファブリケーターを訪問した。また枕木とレールを固定するタイプレートをユニオン・パシフィック主体に輸出していたので、こちらも年に2回のペースで出張し、バーリントン・ノーザンはじめ、あらゆる鉄道会社を訪問した。こうして米国出張を重ね、ストッキストを訪問していると、ニューコアという鉄鋼メーカーの話題が頻繁に出てくることに気がついた。『常に新しいことに挑戦している』、『業績が悪くてもレイオフはしない』、『最近は儲かっており、従業員に特別ボーナスを支給した』といった話が耳に入ってくる。米国企業については、経営状況が悪化するとすぐにレイオフするというイメージしかなかった。ところがニューコアは従業員を大事にして、厳しい時には皆で耐え、良い時には成果を分かち合うという独自の経営方針を持つことが分かった。現地生産するならパートナーはニューコアしかいないという思いが固まっていった」

【米国第1弾、ニューコア・ヤマト】

ニューコア・ヤマト・スチール

――いよいよ米国での現地生産に向けて動き出した。

「米国進出について相談した現地の取引先からは、『ニューコアはH形鋼を生産していない。チャパレル・スチールかノースウエスタン・スチール&ワイヤを紹介する。競争が激しくならない方が良いだろう』と諭されたが、私は『ニューコアのスピリッツを重視している』と応えた覚えがある。本音を言うと、勢いがあるニューコアが単独でH形鋼に参入すると、日本から輸出できなくなるという怖れも抱いていた。合弁事業を提案しようと決断し、日本興業銀行(当時)に相談した。すぐにニューコアの本社があるノースカロライナ州シャーロットに出向いてくれて、大和工業の名前を出さずに、日本の鉄鋼メーカーからH形鋼の合弁事業のオファーがあると話をしてくれた。直接会って話を聞きたいということになって、私は急いで現地に飛んだ。1986年のことだが、ニューコアのケン・アイバーソンCEOとシャーロットのパークホテルで初めて会った。夕食をとりながら合弁事業の意見交換は順調に進んだ。食事が終わりかけた頃にアイバーソンさんが、『意志決定が早くなければ、ニューコアのパートナーにはなれない』と迫られ、それを了解して、交渉が本格化した。最終合意に至るまでに紆余曲折があり、半年ほど交渉が中断したこともあった。話が進展しないので、興銀の方が『大和工業は単独で進出するかも知れない』と囁いたこともあったそうだが、それは私の本意ではなかったし、預かり知らないことだった」

――1987年1月、ニューコア51%、大和工業49%の合弁事業、ニューコア・ヤマトの最終契約に漕ぎ着ける。

「(姫路本社の)この応接室にアイバーソンCEO、デイブ・エーコック氏 サム・シーゲル氏ら経営陣が訪れた。交渉の詰めに入ったところで、ニューコアから55%を持ちたいと提案があった。経営権は譲るが、大和工業のグループ会社であることを内外に示すため49%は譲れないと説明したところ納得してくれた。契約後、次のCEOとなるジョン・コレンティ氏、ビル・ダウシュ氏、ジョン・ダハティー氏らが技術面の打ち合わせにやってきて、やはりこの部屋で面会した」

――当時、ニューコアはリバー(鉄筋丸棒)、中小型アングル・チャンネルの新興メーカーだった。

「ニューコア・ヤマトの土木技術責任者に就いたノーマン・メイロー氏が姫路の本社工場にやって来た。ユニバーサル・ミルの基礎工事を確認するためH形鋼工場の地下に入ったきり、なかなか出てこない。正直言うと、ニューコアは大型の圧延ラインを保有していなかったため不安はあったが、彼の熱心な言動を見聞きして少し安心した。アーカンソー州ブライズビルで工場の基礎工事が始まった時、私は現地のホリディ・インに宿泊していた。同じホテルに泊まっていたメイロー氏が毎朝5時から建設現場に詰めている姿を見た時に不安を完全に払拭できた」

――大和工業にとっても大きな挑戦だった。

「ニューコア・ヤマトの第1期の総投資額は2億5000万ドル。自己資金が1億7500万ドル、7500万ドルが借入金。自己資金の49%、約9000万ドル、当時のレートで約200億円を拠出した。キャッシュが不足したため銀行借り入れも考えたが、一株600円で1200万株のワラント債を発行し、72億円を投資資金に充当した」

――まさに社運をかけた成長戦略投資となった。

「大和工業は62年に東証一部に上場していた。初代社長が亡くなる前に800円だった株価は、私が就任後、徐々に下がっていた。赤字になっても配当を続ける覚悟で、一株600円の社債発行を決断した。事業化調査時は1ドル240円で、合弁事業が4000万ドルの利益を出せば、48億円の持分利益が発生し、国内事業で少々赤字があっても連結黒字をキープし、10円配当を続けられると試算していた。繰り返しになるが、実力で勝負できる市場で競争したかった。自ら米国に足を運び、数多くの人々から情報を得て、ニューコアをパートナーに見初め、実現に持ち込んだ。その後、円高ドル安が進んで円建て利益が目減りしたのは残念だったが、経営判断は間違っていなかった」

――1988年に生産を開始する。

「1988年の独立記念日、7月4日に製鋼のホットチャージを開始、10月に圧延ミルがホットランに入った。翌年2月に単月黒字の報告があり、5000ドル程度だったが、とても嬉しかった。翌3月には300万ドル強の黒字となり、これで順調に行くと思った矢先、4月からは減益が続いた」

――何が起きたのか。

「操業面の問題が発生した。上工程に問題はなかったが、圧延ラインの操業が安定せず、ダウンタイムが増え、生産が伸びない」

――海外ならではの意思疎通などに問題があったのか。

「コミュニケーションではなかった。製造技術を担う当社の責任で、試行錯誤の末、安定操業に入った。圧延ラインはSMS技術ベースの川崎重工業製、冷却床はウイン・ユナイテッド製だった。当時、冷却床は川重製が1200万ドル、ウイン製は650万ドル。冷却床も川重製にしようと提案したが、通らなかった。あのトラブルがなければ、もっと早く利益を計上できた」

――その後、ニューコア・ヤマトは長年にわたって安定収益を計上する。

「収益も安定し、利益を追加の設備投資に回していた。4-5年後だったと思うが、国内事業で20-30億円の赤字が見込まれ、連結赤字となる可能性が出てきた。そこでアイバーソンさんに配当開始を要請した。当初の配当額は覚えていないが、20億円の最終赤字を埋める規模だったことは確か。ニューコア・ヤマトは、30年以上にわたって高収益を安定的に確保し、利益貢献し、配当も継続している」

――昨年8月、シャーロットのニューコア本社でジョン・フェリオラCEO(当時)にインタビューした際、「アイバーソン氏、コレンティ氏、ダン・ディミコ氏ら私を含めた歴代CEOが、井上会長をリスペクトしている。インタビュー記事にメッセージをぜひ盛り込んでほしい」と求められた(本紙2019年9月5・6日付)。 ※過去記事参照

「ニューコアは、ニューコア・ヤマトとほぼ同時期、クロウフォーズビルに薄スラブキャスターによる初の鋼板工場を新設した。薄スラブ連鋳は、世界の大手高炉が実現できなかった革新的技術であり、ニューコアも操業安定に苦労していた。一方、ニューコア・ヤマトは操業開始当初こそ不調で苦しんだものの、その後は安定した収益を計上していた。当時、恒例のディナー・ミーティングで、アイバーソンさんが、ニューコア・ヤマトと同じ時期に立ち上げたクロウフォーズビルは大変だとこぼしていた。新規事業が揃って悪ければ、もっと大変だっただろうから、少しは貢献できたと思った記憶がある。因みにニューコア・ヤマトの建設予定地については、ミシシッピ流域にバージを設けて船で鉄スクラップや鋼材を運べることを一つの条件としてアイバーソンさんに提示した。その結果、ブライズビルに決定し、バージ荷役設備も設置した。その後、ニューコアはアーカンソー州のヒックマンに3億5000万ドルを投じて2つ目の薄スラブ連鋳工場を建設するが、ここにもバージ荷役設備を設置しており、参考にしてくれたのだろう」

――ニューコア・ヤマトは年間200万トン規模の生産を続けており、利益貢献度も高い。成功の要因を聞きたい。

「私の前で『成功』という言葉は使わないでほしい。ビジネス環境は常に変化しており、いま絶好調であったとしても、5年後はまったく分からない。競争力ある商品を持つ事業であっても、他社の参入や市場構造変化によって一瞬で収益力は低下する。慢心することなく、最大限の努力を重ねていくことが不可欠。ニューコア・ヤマトはチャレンジを続けており、現在も新製品を開発するための設備投資と差別化技術の開発に取り組んでいる」

――アイバーソン氏は著書の「Plain Talk」(1998年出版)で、ニューコア・スピリッツについて熱く語ると同時にニューコア・ヤマトにおける実践例を数多く紹介している。フェリオラ氏の前任のダン・ディミコCEO、後任のレオン・トパリアンCEOともにニューコア・ヤマトのトップを務めていた。

「ニューコア・ヤマトには優秀な人材を送り込んでくれており、感謝している」

――昨夏のインタビューでフェリオラ氏は、ニューコア・スピリッツを理解できなければ採用しないと強調していた。アニュアル・リポートは表紙両面が従業員の名前で埋め尽くされている。

「ニューコアの魅力は、従業員を大事にするスピリッツだという話をしたが、コレンティ氏はUSスチール出身、フェリオラ氏はベスレヘム・スチールからの転身組だが、ニューコア・スピリッツに完全に順応し、実行していた。ニューコアは事業を買収し、人材もヘッドハンティングしているが、多くの社員がニューコア・イズムに共鳴し、同化している」

――ニューコアは「小さな本社」も徹底している。

「本社はシャーロットのダウンタウンやダグラス国際空港から離れたオフィスビルを間借りしている。主な経営陣は20人程度。設備投資の際に意見が食い違うことがあって困ることは多かったが、コスト意識は極めて高い」

【米国第2弾、アーカンソー・スチール】

アーカンソー・スチール

――この間、89年にアーカンソー・スチールを設立する。

「日本から輸出していたタイプレートをニューコア・ヤマト(NYS)で製造する構想があり、設備レイアウトも描いていたが、当時はNYSのジェネラル・マネージャだったコレンティ氏がタイプレートはやめたいと言ってきた。ニューコアはボーナス(一時金)システムを採用しており、同一事業所内に異なる製造プロセスがあると、同じボーナスを出せず、混乱を来たすというのが理由だった。米国市場では、ホットワーク(HW)といって、圧延したバーを熱間で穴開けし、プレスして製造するタイプレートが主流だった。大和工業は毎時150トン規模で製造スピードが速いため、次工程のコールドシャーで切断し、熱間で穴開け、プレスしていた。日本と同じプロセスで設計しようと考えていたが、当時、米国にはレーザーバックというタイプレート専業メーカーがあって、日本からのタイプレート輸出を担当していた住友商事からは、一緒に買収しようと呼び掛けられていた。当初は断っていたが、ニューコア・ヤマトで製造できないことが分かり、調べてみるとHWプロセスでスペックを満たしている米国唯一の企業だということが分かった。設備と技術を持ち、商流もある。住商は過半数を持ちたいと言ったが、折半出資で買収し、アーカンソー・スチールを設立した」

――米国輸出を現地生産に切り替えて、国内の輸出余力をよそに振り向けた。

「多い時は年間7-8万トンを生産していたので、米国以外への輸出を増やすことができた」

――アーカンソー・スチールも収益は安定している。

「当時の米国住商の高橋部長が、買収直後に鉄道会社を訪問し、30-40ドルの値上げを通達した。月間5000トン規模だったと思うが、これで収益性が改善し、初年度から利益を計上している。設備が古いため、老朽更新を優先する時期もあったが、赤字になって足を引っ張ることはなかった」

【東南アジア第1弾、タイ】

サイアム・ヤマト・スチール

――92年にはH型鋼でタイに進出する。

「タイ進出は、三井物産が提案してきた。H形鋼を現地生産しようと某電炉メーカーに提案したが断られたといって、当時は担当海外部長だった藤次さんが話を持ってこられた。すでにニューコア・ヤマトは利益を出していた。海外進出が社員のモチベーションを刺激することも確認できていた。シンガポール、マレーシア、インドネシアにH型鋼を輸出していたが、タイ向けはなかった。三井物産が市場調査を徹底し、事業化調査が成り立つなら、技術は提供するということで、三井物産の有田副社長に挨拶にいったところ、『サイアム・セメントに合弁事業を提案し、乗ってくるなら実行、駄目なら考え直した方が良い』という建設的なアドバイスを頂いた。サイアム・グループはタイ一番の民族系財閥で、当時は鉄鋼事業も積極展開していた。鉄筋丸棒やワイヤロッドを生産し、三井物産とは鉄鋼、化学品などで幅広い取引があった。実はインドネシアに強かった住友商事の大久保さんからも現地生産の誘いはあったが、サイアム・グループがパートナーとなるタイを選んだ。サイアム・ヤマトの当初の出資比率は当社33%、サイアム51%、三井物産12%で、インドネシアにも販売できると仲介して住商の出資も得た」

――合弁事業は順調に立ち上がった。

「製造面は順調だったが、当初3-4年はサイアムと三井物産の双方に不満がくすぶり続け、とても苦労させられた。当時の商社は海外事業に一部出資して物流を獲得するのが基本スタンスだった。販売・物流など現地業務に責任を果たそうとするサイアム側とのコンフリクトが絶えず、自分達で解決すれば良いのに、双方が私に仲裁を頼んでくるので、板挟みになって大変だった」

――その後、サイアム・ヤマトは転機を迎える。

「サイアム・グループが鉄鋼ビジネスから撤退する方針を固め、株式を売りたいと言ってきた。コンサルタントが入り、事業の選択と集中を推奨した。セメントとパッケージング、化学品が選択され、鉄鋼はこぼれた。サイアムは持分すべてを売却したいと言ってきたが、三井物産の土川副社長から、サイアムとは10%株式の保有を続けることを条件に交渉するようアドバイスを受けて、その通りにした。2007年に出資構成を変更し、現在は当社64%、サイアム10%、三井物産20%、住友商事6%となっている。サイアムには相応のマネジメント・フィーを払って、現地業務を引き続き任せている」

――サイアム・ヤマトは年間80万―90万トンのH形鋼を生産し、高収益を持続している。

「現在のサイアム・セメントの社長兼CEOで、当時は財務担当責任者だったルンロート氏が、廣野ゴルフ倶楽部でラウンドしたいということで訪日した際に『コンサルの言いなりになるのか』と詰め寄ったところ、彼は『サイアム・グループの意向だ』といって譲らなかった。後日談になるが、サイアム・グループには、歴代社長、王室系役員など社外役員を含めたビッグ・ボードがあって、ボードメンバーのある人が来られて、サイプレス・ゴルフクラブでラウンドした際に『サイアム・ヤマトの株式の大半を売却したのは、サイアム・グループの重大な経営判断ミスだった』と憤慨していた」

【韓国に進出、YKスチール】

YKスチール

――2002年には韓国に進出する。

「大和工業の発祥事業は、トングレールを加工して始めたポイント(分岐器)などの軌道用品。現在もポイント、脱線・逸脱防止ガード、タイプレートなどを国内外に販売している。軌道用品についても、アーカンソー・スチールに続く海外成長機会を探りたいと考えていた。そこでロスアンゼルスの竹中パートナーズに相談し、欧州や米国を一緒に周って、M&Aのターゲットを探したが、オーストリアのフェスト・アルピーネ・グループが分岐器や特殊レールの買収で先行しており、出遅れたことが分かった。フェストがアメリカとカナダに分岐器の製造販売会社を保有していて、ここに出資・参画するという提案を受けてバーミンガムの工場を訪問していた時だったが、韓宝鉄鋼の釜山製鉄所が売りに出ているが、興味はないかという話が飛び込んできた。韓宝はアジア金融危機で1997年に倒産し、法定管理下にあった。釜山製鉄所は鉄筋棒鋼を製造しており、大和工業のH型鋼主体の鉄鋼事業のポートフォリオを拡充するとともに、次の海外進出に向けてのノウハウも獲得できると考え、現地に視察に行った。裁判所の許可が間に合わず、周辺から見るだけだったが、労働組合の委員長で実質的に経営を担っていたチェ専務と面談できた。チェ委員長からは『デベロッパーに買収されると工場は閉鎖される。従業員のため製鉄所の運営を継続したいので、ぜひ買収してほしい』と懇願された。チェ委員長に確認すると、韓国に多い先鋭的な労働組合ではなく、労使関係を重視しているという。そこでチェ委員長に『あなたが責任をもって組合を束ねてくれるなら』という条件を付けて競売に応札した。入札企業は9社で、ものづくり企業が2社、7社はデベロッパーだった。入札価格は上から5番目だったが、チェ委員長が裁判所に直談判し、雇用を維持する前提で優先交渉権を獲得した。生意気な言い方かも知れないが、韓国は反日教育が盛んで、近くて遠い国になってしまっていた。日本が喧伝されているような国ではないことを釜山のワーカー達にだけでも理解してほしいという気持ちが湧いてきた。こうして2002年、大和工業60%、オリックス40%で、ヤマト・コリア・スチール(のちのYKスチール)を設立した。竹中パートナーズが親しかったオリックスの宮内義彦さん(当時社長)、井上亮さん(現社長)に話を通してくれて、説明に伺った。宮内さんは、韓国では大きな失敗をしたことがあったが、もう一回挑戦しようといって出資してくれた」

――買収額は約140億円だった。

「買収後、設備合理化に約60億円を投じている。製鋼設備を集約し、圧延ラインを大幅改造して、年産能力80万トンの効率的生産体制を構築した。その結果、操業が安定し、少しずつ利益が出始めた」

――YKスチールは100万トン規模の鉄筋棒鋼を生産し、利益も安定して計上してきたが、本年6月、株式51%を大韓製鋼に売却した。

「日韓友好につながればと思い、釜山製鉄所の事業を継承し、設備投資も続けてきた。ところが現政権になって反日ムードが高まった。製鉄所の周辺に建設されたアパートメントの住民からは移転を迫られている。残念なことだが、YKスチールが日本企業であることがマイナス材料になってしまった。韓国の鉄筋市場は縮小傾向にあり、競争も激しくなっている。小林社長をはじめとする現経営陣は、YKスチールの競争力を強化し、収益性の向上を図るには現地の鉄鋼業界に精通した戦略的パートナーが必要と判断。将来の製鉄所移転も視野に大韓製鋼が主導する合弁会社に見直すことを決めた。新会社への出資比率は49%となり、持分法適用会社となった」

【中東進出第1弾、SULB】

スルブBSC

――米国、タイ、韓国に続いて、中東に進出する。

「韓国への進出とその後の追加投資までは、すべて私の独断で決定してきたが、新たな海外プロジェクトについては役員全員で検討するよう指示をした。マッキンゼーをコンサルタントに入れて、検討を重ねた結果、バーレーンに大型形鋼の合弁事業を設立することになった」

――バーレーンを選んだのは。

「中東諸国は、現地で鉄スクラップを安定調達できないため、製鉄所の多くが還元鉄プラントを併設している。サウジアラビアは市場が大きいもののハディードなど先行メーカーがあった。また、いずれの国も原油・ガス資源は豊富だが、天然ガスについては電力や石油化学などへの優先制度を敷いている。バーレーンは唯一、天然ガスが安定供給され、鉄鉱石ペレットを安定調達できるなど環境が整っていた」

――現地のフーラス51%、大和工業49%で2009年にSULB・BSCを設立した。

「フーラスは年産1100万トン能力の鉄鉱石ペレット工場を操業するバーレーン・スチールを運営する。スルブ・BSCは、ペレット工場の隣接地に年産能力150万トンの直接還元鉄プラント、100万トンの製鋼工場、60万トンの圧延工場で構成する一貫製鉄所を建設した」

――大和工業にとって過去最大の海外プロジェクトとなった。

「総事業費が12億ドルで、5割を自己資金、5割を借り入れとした。当社の初期投資は3億ドルの大型案件となったが、直接還元鉄の製造プロセス、操業ノウハウ、最新鋭の電気炉、圧延ラインのプロセス技術を習得するとともに、中東市場への進出を果たした」

サウジスルブ

――世界最先端のプロセス技術、ノウハウを習得した。

「還元鉄プラントは、天然ガス還元プロセスで絶対的な評価を得ている米ミドレック ス製。製鋼・圧延ミルはSMS・コンキャスト製。操業は順調で、製造面はまったく 問題ない」

――続いてサウジアラビアへの進出も果たす。

「現地のユナイテッド・ガルフ・スチール(USG)が破産し、売却されるということで、フーラスと投資会社を設立して買収した。新設したUnited・SULB(サウジスルブ)への間接出資比率は49%。サウジスルブは小型形鋼、アングル・チャンネルの単圧ミルで年産能力45万トン。バーレーンから半製品のビレットを供給し、小型形鋼をサウジアラビア、大型形鋼をバーレーンで分担生産するなど、双方の機能と能力を補完し合っている。結果的にスキームはうまくできたが、いかんせん市場環境が悪く、赤字幅は大きい」

【東南アジア第2弾、ベトナム】

ポスコ・ヤマト・ビナ・スチール

――2019年末には、ベトナム進出も決めた。

「韓国POSCOがベトナムで電炉一貫製鉄所を建設し、形鋼と鉄筋丸棒を生産していた。そのPSSVに出資参画し、電炉操業、大型形鋼生産についての知見を提供してほしいとの要請があり、検討に入った。パートナーが世界最強の高炉メーカーであり、ベトナムをはじめとする東南アジアの建設鋼材は中期的に市場拡大が期待できる。ベトナムでは共英製鋼はじめ棒鋼ミルは多いが、PSSVは唯一の形鋼メーカーだった。そこで鉄筋事業からの撤退、債務超過の解消などの財務健全化を条件として提示し、受け入れられたことから出資を決め、本年3月にPSSVの株式49%を100億円で取得した。コロナ禍で遅れていたが、ポスコ・ヤマト・ビナ・スチール・ジョイントストックカンパニーへの技術者の派遣を9月中旬に開始した。品質やコスト改善などの効果を引き出し、POSCOと連携して業績回復に努めてくれると期待している」

ポスコ・ヤマト・ビナ・スチール

【海外事業が大きく貢献】

――大和工業は、売上高経常利益率12-15%を維持している。リスクを取りながら海外投資を続けてきた経営判断が高収益を支えているわけだが、海外事業に臨む基本スタンスは。

「確かにSULB以外は、いまのところ経営が安定し、大和工業の連結利益に大きく貢献している。トランプ大統領が『アメリカ・ファースト』を掲げて実践しているが、私の海外事業における基本スタンスは『ジョイントベンチャー・ファースト』。親会社は利益還元ではなく、合弁事業が順調に立ち上げて、持続的成長に必要な設備投資を続けることを優先しなければならない。既存事業を買収したアーカンソー・スチールは設備が古かったため設備更新を続けた。ニューコア・ヤマト、サイアム・ヤマトは自己資金で大型設備投資を続けている。ニューコア、サイアム・グループともに合弁事業の利益を最優先する経営理念に賛同してくれた」

――パートナー選びが重要で、役割分担を明確にすることも安定成長の秘訣。

「信頼できるパートナーを見つけることが海外合弁事業の最重要ポイント。パートナーには現地のマネジメントやマーケティング、経営を任せる。製造技術は惜しみなく、すべてを提供してきた。米国ではニューコア、タイではサイアムが現地の問題にすべて対処してくれている。YKスチールも当初から49%出資でスタートできれば良かったが、名乗り出る現地のパートナーがいなかった」

――海外事業は自立して、成長投資を続けている。

「海外事業が技術で先行し、横展開する好循環に入っている。ニューコア・ヤマトは、市場構造の変化に合わせてシートパイル市場に参入し、QST(クエンチ&セルフテンパーライン)を導入してハイテン材にもチャレンジする。またSULBと同タイプのコンパクト仕上げ圧延ミルも導入する。サイアム・ヤマトは新設した大型の鋼材物流センターによる小ロット・短納期対応などの機能を活かして輸入材との差別化を図り、同時に鋼材加工機能を活かして現地のファブリケーターやゼネコンとの取引拡大を目指している」

――原料調達は、地域ごとに特性があって難しい。

「現地に任せている。リーマン・ショック前のことだが、ニューコア・ヤマトがピグ・アイアン(銑鉄)を多用していた。高付加価値商品に使うのは良いが、利益が出ていたため、操業安定を優先させていた。鉄スクラップの有効活用を促したが、見直されなかった。リーマン・ショック直後の話だが銑鉄価格の暴落もあって100億円は損をした」

――海外進出はリスクも抱え込む。

「持続的成長に挑むことで大和工業の社員のやる気、働き甲斐を引き出し、とくに技術陣のモチベーションを刺激することを意識してきた。ニューコア・ヤマトから学ぶことは多く、サイアム・ヤマトのノウハウはベトナム事業でも活かされるはずだ」

――海外進出における商社の機能を。

「非常に高く評価している。まずは輸出市場を開拓するため長年にわたってトップセールスを続けたが、常に商社の方々が空港に迎えに来てくれて一緒に行動し、取引内容を整理して、注文を入れてくれた。海外事業についてもアーカンソー・スチールは住友商事が発端で、サイアム・ヤマトは三井物産がチャンスを設けてくれた。三井物産は大和工業に6・76%、住友商事は3・64%出資しており、サイアム・ヤマト経由でベトナム合弁にも間接出資している」

――世界の鉄鋼業は電炉プロセスに改めて注目している。電炉・鋼板ビジネスへの関心は。

「小林(幹生)社長はじめ、現経営陣で相談して、判断してもらう」

――井上会長は東京工業大学を1967年に卒業して、2年間、海外企業での経験を積んだ。

「国内の某企業の内定をもらっていたが、ある時に呼び出されて『どうせ途中でやめるだろう、定年まで勤める意志があるなら採用してやろう』といわれて辞退した。この様子ではどこも難しいだろうと考え、ドイツに行きたいと親に相談した。住友商事の椎名時四郎副社長(当時)に紹介してもらって、マシーネン・ファブリックザックに6カ月間、ハーデンクレーバーAGに1年半それぞれ勤務させてもらった。数多くのことを勉強、経験して日本に帰ってきて、大和工業に入社したのは26歳だった」

――海外での経験と外国語への抵抗のなさが、80年代の海外進出を阻害しなかった

「自分では分からないが、そうかも知れない」

――忘れられない出来事も多い。

「ニューコア・ヤマトをアーカンソー州ブライズビルに建設することを決め、サイニング・セレモニーがリトルロックで1987年に開催された。当時、アーカンソー州知事だったビル・クリントン氏、ニューコアのアイバーソンCEOさんとともに出席した。記者会見を終えて、州政府がチャーターしてくれた航空機でブライズビルまで飛んだ。機内には私と家内、クリントン州知事とSP、アイバーソンさんもいたと思う。そこで思い切って『Are you aiming presidency?』と尋ねたところ、否定はしなかった。当時は共和党出身のブッシュ大統領が圧倒的な存在感を示していたが、クリントン氏は92年に大統領に就任した。クリントン氏は知事時代に姫路を訪問してくれるなど、お会いする機会は何度かあった。大統領時代の外交政策は気に入らなかったが、2期8年を務め上げ、経済情勢は好転し、治安も良くなった。私はヒラリーさんの記憶はほとんどないが、家内はヒラリーさんの印象がとても強いと言っている」

――米国以外では。

「釜山製鉄所の社員は極めて礼儀正しかった。私が訪問すると出迎えて、大歓迎してくれた」

――ビジネスが国境を超えて、摩擦を解消する事例。

「すべてがうまく行くわけではないが、YKスチールの社員は、米国やタイ、日本の社員より礼儀正しく、そうした振る舞いがとても嬉しかった」

――大和工業は1944年設立で、昨年75周年を迎えた。井上会長は、2017年に小林社長にバトンを渡すまで36年間にわたって経営トップの重責を担ってきた。次の大きな節目となる100周年に向け、国内・海外のグループ社員にメッセージを。

「私は1945年生まれで、会社より3カ月ほど若いが、まさに一緒に歴史を刻んできた。69年に入社し、73年に取締役に就任したが、約50年間にわたって、会社の経営を安定させ、社員のモチベーションを高めることに心を砕き、ともに発展し、成長してきた。安定配当を続け、給与・一時金もしっかり出している。国内・海外グループの全社員が常に働き甲斐を感じ、刺激を共有して成長を続けるゴーイングコンサーンの会社であり続けてもらいたい」



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